肌にやさしい布マスク

ecomas Blog

2022/02/04 23:21


こんにちは、Ken坊です。


外は寒いですね、
皆さんどうぞお体ご自愛下さい。

今日のブログは書くかどうかをずっと迷っていたんですが、
自分が今の場所から前に進むため、
気持ちを記録として残しておきたいと思いまして、
非常に個人的な内容ですが書く事にしました。

自分のためなんで、
ご興味なければ全然スルーしてくださいね。(^-^;


今年のお正月明けに、病を患っていた父親が他界しました。
満80歳でした。

今の時代だと長くもなく、早くもなくの年齢でしょうか。
それでもやっぱり早かったと感じるのは、息子だからなんでしょうね。


面白い父親でした、
歌の上手い父親でした、
とても器用な父親でした、
とても繊細な父親でした、
仕事に真面目な父親でした、
怒ると怖い父親でした、
我慢強い父親でした、
優しい父親でした、
母の事が大好きな父親でした。
最高の父親でした。


2020年に癌が見つかり、
手術が出来ない事が分かってから、
いつか、そういう日がくる事はわかっていたんですが、

それでも、
胸にポカンと大きな穴が空いた感じです。


ブログには正直な気持ちを書くことを決めて始めたので、
以前までは割と楽にブログも書けていたんですが、
父の病が進行してきてからは、
どうしてもブログが後むきな内容になってしまい、
中々更新することが出来ませんでした。

少し長くなりますが、
今日は、オトンのことを色々と書きたいと思います。

一緒にお酒を飲むようになって聞いた話しですが、
オトンは、母親を早くに亡くし、
親もとを離れて「となりのトトロ」に出てくるような兵庫県の田舎に疎開暮らしをしていました。
オトン曰く牛小屋を改装した小さな家で、
兄弟だけでずっと暮らしていたそうです。

大学進学を期に大阪に戻り、
歌う事が好きだったオトンは、大学で合唱部に入っていました。
本当は歌うことを仕事にする夢があったそうですが、
祖父に
「お前みたいなもん頑張っても音楽の先生が関の山や!」
と猛反対されて会社を継ぐことを決めたそうです。

そういえば、私が夢見る夢子ちゃん状態で絵を描き続けていても、
オトンから一度もストップがかかった記憶ありません。
もしかすると、自分の悔しかった気持ちが影響したのかもしれません。

そんなオトンですが、もともと器用で真面目な人だったので、会社に入るとすぐに仕事を覚えて、祖父も実力を認めていたそうです。
その後、オトンは28歳で結婚をし、その同じ年に祖父が亡くなりました。

まだ20代だったオトンは、先代のいなくなった会社を守るのに必死だったそうです。
幼少期の体験から、
貧乏暮らしに戻ることが何よりも怖く、
とにかく仕事をして少しでも暮らしを良くしないと
不安で不安でたまらなかったと、よく飲みながら言ってました。

そんな状況なので、子供が生まれてからも私の姉と兄の産まれた時は、一切子育てには関わっていないらしいです。
子供を抱いたのも、私が産まれて初めてだったらしい…。
今の時代だったら、奥さんに即、離婚されそうですね。(^^;
母は相当大変だったと思います。

その甲斐あってか、当時、日本で伸び始めていた婦人服アパレルの縫製を子供服縫製からメインへとシフトチェンジして、時代の波にのって事業を大きくする事に成功しました。

働く人が増え、車も増え、家も建て直し、
私も子供心に商売が繁盛しているのは、なんとなく分かりました。

それでも、良い時代が永遠に続くことはなく、
数年後、中国での生産がアパレルの支流になってからは、
加工賃がどんどん値下がりし、
国内生産にこだわっていた大林縫製は、
安い加工賃を要求するメーカーさんと、
今まで通りの加工賃を求める縫製職人さんとの板挟みになって、身銭を切って営業を続けていたそうです。

当時、中学生だった自分も経営が大変そうなのは、
何となく感じていましたが、オトンがそれを見せる事はありませんでした。

オトンがよく言っていた言葉ですが、
「俺は、もともと牛小屋で育ったから、最悪どうしようもなくなっても、また昔の生活に戻るだけやと思えばナンも怖くない。」
やせ我慢で言ってたのかもしれませんが、
確かに、従業員が減り、社用車が減り、会社経営がどれだけ苦しくなっても、オトン自身は何も変わりませんでした。

オトンが50代の頃に兄と私は会社に入り、
たまに仕事の帰りが遅くなると、
オトンから声が掛かります。

「ヒデユキ、ケンジちょっと帰る前に一杯飲んで帰れへんか?」

最初は和気あいあいと始まる飲みの席..。

「もっとメーカーにも対々でものを言えるようにならなアカン!」
しばらくすると必ず仕事の話が始まります。

「いや、オトンの時代と今は違うねん。」
などと言い返せば、

「言い訳すな!会社の売り上げが上がらんのは、まだまだお前らの努力が足らんからや!」

「汗かいて必死に仕事してたら知恵が出る!
もっと知恵を出せ!」

最終的には、
「俺の若い時はお前らの3倍は働いた。」

オトンのワンマンショーになる(笑)
これがいつも安定のルーティーンでした。

自分が表舞台から下がって、
私たち兄弟に営業を任せた後も、
病を患う78歳まで自分の仕事場に立ち続けていたオトン。

今だから分かります。

オトンは自分の生活がどうこうで仕事していた訳ではなく

男ってのは死ぬまで戦い続けるんやぞ
私たちにその事を最後まで伝えたかったんだと思います。



先日、
オトンの仕事場だったプレス場に行きました。

アイロンの横にいつも置いてある、
糸切バサミがあったんですが、

なぜか東京に住む姉からもらった携帯ストラップが付いていて、
糸を切る時にストラップが引っ掛かかって切りにくい(笑)

でも外さないで付け続けていたオトン、
思い出してフッと笑ったら
涙が出ました。


オトンは自宅で亡くなったので、
死ぬ瞬間もそばにいたんですが、

すぐに葬儀の段取りやら何やら考える事もあったりして、
そういえば悲しむ暇もあまり無かったからなのか、
思いっ切り泣けました。

一人オッサンがアイロン場で泣いている姿

誰も来なくて良かった(笑)


悲しくは無いです。
でも寂しくはあります。

すごい良い映画見たあとのような
「あー楽しかった。」っていう気持ちの後の寂しさがぴったりなので、

オトンの棺を閉める時には
「めっちゃ楽しかった!ありがとう!」
と伝えました。


私は自分の息子たちに、
死んだ時に笑うヤツが100人より、
泣いてくれる人が100人いる人間になってほしいと思っています。

コロナ禍であえて家族葬でお知らせも控え目にしていたにも関わらず、
会場の外まで参列者が来てくれていた葬儀。
友人、親族、昔の仕事仲間から届く沢山のお花。

オトンの棺に花を入れてくれる人は皆、
顔をクシャクシャにして泣いている人ばかりでした。

人生に勝ったも負けたも無いのかもしれませんが、

お金を沢山稼いだ人が人生の成功者なら

稼げなかった人は失敗者になるのかな?


資産を沢山持っていても、

死んでしまえばあとは残された人たちのもの。


それより、残された人の心に残り続ける人こそ

ホントの人生の成功者なのでは…。

そんな事を葬儀の時に考えてました。


なら、オトンの勝ちやな!(笑)

心の中でオトンに話しかけると、
オトンの笑った顔が浮かびました。






ヨシッ!

なんかスッキリしたので、
また、ここから始めます!

ホントに長々と書いてスミマセン (^▽^;)
次回は、しっかりecomasの事も書きますね。



それでは、また

一針一針に心を込めて